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episode 04

イザベラに一度さよならを言った後、わたしは暗くなった運河のほとりで、夜の営業が始まる時間を待ってたたずんでいた。

知らないイザベラを知ることは、恐い気がした。だけどわたしが、この世界でいつか知らなければならないことであり、“知る” ということだけが、唯一わたしがイザベラと一緒に戦ってあげられる方法のような気もした。

きらきらと赤いライトが混ざった街灯に照らされる水面がきれいだった。

顔を上げると、川向こうには知らない誰かの赤い飾り窓が、規律正しく並んでいる。

見知らぬ客を待つ女たちが、抱えた時間をやり過ごす。窓の中は薄ぼんやりとした別世界だ。

しばらくすると近くの植え込みから、変な声が聞こえてきた。女の切れかかったような薄い声と男の規則的な吐息。この界隈では、珍しい出来事ではないのでわたしは再びぼんやりとしていた。

だがその後、植え込みから歩いてきた男女を見てわたしは目が釘付けになった。

あの男だ。あの男ではないか。

ギリシャ彫刻のような巻き毛に白い肌。何度もイザベラの写真を見たからわかる。わたしは瞬きも忘れて男を見つめた。

酔っ払っているのか、カフェで大麻を吸った後なのか、近づいてくる男の足元はおぼつかない。一緒にいた黒髪の女は、少し歩くとすぐに立ち去っていった。

やがて視線を感じ取ったのか、男が足を止めた。座った目でわたしを見る。心臓が跳ねて体から飛び出しそうになる。だが男は、見知らぬ子供に注意を払うわけもなく、すぐに視線を外して足を踏み出した。

川岸で立ち止まり、タバコをシャツの胸ポケットから取りだすと、植え込みの横にしゃがみ込んだ。ジッポライターを開く金属音が響き、薄い煙が立ち上った。

闇の中、川から軽く吹き上がった風に男の髪がふわりと揺れた。

わたしはそっと男の背後に回った。


  21時を過ぎた頃、わたしはイザベラの部屋の飾りカーテンの中にいた。静かに膝を立てて座り、じっと耳を澄ませていた。

表通りが少し騒がしい感じもしたが、わたしは構わなかった。そうしているうちに、少しうとうとしてしまったようだった。

重いドアノブが廻った音と一緒に、ざわめきとイザベラの声が聞こえてきた。

  ――ブロー(フェラチオ)だけの料金ね。ファックもなら100ユーロプラスよ。体位はひとつだけ。

――ドギー(バック)? それともミッショナリー(正常位)? 拘束は特別料金よ。優しくして。

――ソーリー。キスだけはだめなの。

話がついて、「じゃあカモン」とイザベラの甘い言葉がした瞬間、どこからかミュアーとトラ猫の鳴き声がした。

わたしは驚いて体を動かしてしまった。その瞬間にベッドサイドのテーブルにぶつかった。

「誰?」

いつもと違う堅いイザベラの声が飛ぶ。しまった。見つかってしまった。しようがない。わたしはカーテンを飛び出し、イザベラと客の間に向かっていった。2人をすり抜け、閉まりかけたドアの隙間から部屋を出た。

「マノン!」と言うイザベラの声を背に、駆け出していく。わたしの前を、トラ猫が追い越していった。脚が悪くていつもとろい動きなのに、今はなんて逃げ足が速いの。

少し駆けていき、もう大丈夫だろうと立ち止まった。

息を切らして顔を上げると、トラ猫がひとりの男に抱かれていた。イザベラの部屋があった大通りから離れて、人気が少なくなった場所だった。

こら猫ちゃん、誰にでも愛想を振るんじゃないよ、と心の中で思った瞬間、トラ猫を抱いた男の顔が、街灯に照らされて浮かび上がった。

ずっと前の昼間、わたしに変な事を言ってきた男だった。

「おお。お前の猫か。それはそれは」

男はわたしの姿を認めると、意地悪そうな顔でトラ猫の頭を撫でた。

<続く>

AUTHOR

西尾潤 (にしお じゅん)

2019年『愚か者の身分』で第二回大藪春彦新人賞を受賞し小説家デビュー。現役でヘアメイク・スタイリストとしても活躍する新進気鋭の小説家。大阪府出身。

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