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episode 02

火星移住プロジェクトのクルー募集の話を耳に挟んだのは、そんなふうに騙し騙し生き長らえて、1年ほども経ったころだった。

応募の条件は、アメリカの市民権もしくは永住権を持つ30歳から55歳の成人で、非喫煙者であること。加えてSTEM(科学・技術・工学・数学)分野の修士号以上を保有しているか、4年以上の職務経験のある者。もしくはパイロットとして少なくとも1000時間の飛行経験がある者。生物学者で当時37歳だった私には、充分な資格があった。

書類による一次審査に合格した後は、長期のミッションに耐えうる身体的、精神的能力があるかを徹底的にテストされた。持病やアレルギーがあったり、特定の薬剤を使った治療を受けている者は、その段階ではねられた。

二次審査をパスすれば、訓練に入る。期限つきの火星移住を想定したあらゆるプログラムをこなしてゆき、理解力や判断力、コミュニケーション能力といったものが数値化される。そうやって私は、クルーの中の一人に選ばれた。

私とベンには、物理的な距離が必要だった。いっそ火星にまで行ってしまえば、私は地球で日常を刻み続ける夫を、ベンは慣れないコロニーで住環境を整えようとしている私を、思い遣ることができるかもしれない。そして帰還した暁には、2人の関係にようやく決着がつく気がしていた。

「帰ったら、話し合いましょう」と、私は言った。

「ああ。君の無事を祈っているよ」と、ベンが答えた。

遙か遠くに旅立とうとする私は、夫の無事を疑ってもみなかった。


洪水の発生から3日が経っても、ベンの安否は知れなかった。

行方不明者の捜索が難航しているのは、街を飲み込んだ水がなかなか引かないからだ。被害の深刻な地域には、我が家のある区画が含まれていた。

本部のほうでも情報をかき集めてはいるが、ベンらしき人物には行き当たらない。ミアの死以来すっかり疎遠になっていた義父母からもメールが届いたのだが、やはりベンとは連絡がつかず、錯乱していた。

その点私は泣かず喚かず、冷静に見えたかもしれない。実際は全身に重たい砂を詰め込まれたかのような、無力感に襲われていた。

家族や友人、恋人といった、大切な人を残してきた地球。その地上になにが起こっても、私たちにはなにもできない。現地に駆けつけて愛おしい人の名を呼ぶことも、小さな瓦礫をどかす程度のことすらも。それが、故郷から遠く離れた火星人(マーシャン)の宿命だった。

その事実は、他のクルーをも打ちのめした。もしも被害に遭ったのが自分の街だったならと想像して、親身になって私を慰めてくれた。そして数日経っても水が引かない街の画像を目にしては、「政府はなにをやっているんだ」と苛立ちはじめた。

「でも、フロリダじゃなくてまだよかった」という本音を、うっかり洩らしてしまったのはイーサンだったか。カーラがすぐに窘めてくれたが、私はべつに、イーサンを責める気にはなれなかった。おそらく私を含めた全員が、そう思っていたに違いないから。

もしもフロリダの本部が壊滅的な被害を受けたなら、私たちは孤立する。復旧を待つ間、我々ははたして正気を保てるのだろうか。本部からもたらされる複雑なミッションによって埋められていたタイムテーブルが空白だらけになったとたん、未知の可能性を秘めた赤茶けた大地は、退屈の荒野と成り変わる。

そしてなにより恐ろしいのは、食糧不足への懸念だ。このコロニーに運び込まれた物資は、1年間のプロジェクトを見込んだ分量でしかない。缶詰やレトルト、フリーズドライといった味気ない食料を、かなり節約して食べてきたが、備蓄は潤沢と言いがたい。

水は現地調達できたとしても、食料はまだその段階になかった。生物栽培空間で水耕栽培しているレタスやルッコラも、日々の食事にわずかな彩りを添えるだけのもの。火星の地表面を覆うレゴリスに有機物を加えて土壌化しても、多量に含まれるカドミウムや銅といった重金属は人体には有害だ。土壌改良の可能性を探して私はその土でミミズを育て、繁殖させる実験を担っていた。

自活にはほど遠い、赤子同然の私たち。ミルクを与えてくれる人がいなければ、生きてゆくことさえできない。

私はそう遠くない未来に人類は火星で自活できるようになると信じているが、もしそのシステムが整う前に母星が滅びてしまったら、火星に送り込まれた開拓者たちも餓えて死に絶えるのは目に見えていた。

<続く>

AUTHOR

坂井希久子 (さかい きくこ)

2008年『虫のいどころ』で第88回オール讀物新人賞を受賞。2009年『コイカツ-恋活-』で小説家デビュー。2017年には『ほかほか蕗ご飯 居酒屋ぜんや』で第1回高田郁賞、第6回歴史時代作家クラブ新人賞と数々の受賞歴を持つ。官能小説家・エッセイストと多彩な側面とバラエティに富んだ作風を持つ異色の小説家。和歌山県出身。

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