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episode 02

馬鹿馬鹿しいショーが終わった運河の上空は灰色だった。

アコーディオンを肩から下げたまま突っ立っているわたしをイザベラは見下ろした。わたしは、足元にすり寄ってきたトラ猫を抱き上げていた。

イザベラがトラ猫を引き取って胸に抱いた。

人見知りという言葉も意味も知らない猫は、イザベラの胸元にすり寄るように顔を埋める。

「こいつ、よくこの辺うろうろしてるから、わたしも顔なじみだよ」

と、イザベラは言った。そして携帯電話をポケットから取り出すと、電話をかけ始めた。

「さっきの男はたちが悪いから警察に通報しておくわ。騒ぎは今日が初めてじゃない。この前も仲間に無理強いして、金をごまかしたゲス野郎だから」

そのあと、わたしは初めてイザベラのハウスボートへ行った。

水路が張り巡らされた街であるアムステルダムには、何千というハウスボートが浮かんでいる。

イザベラの部屋は、天井が低くてほどよく狭いが、寝食には十分の広さだった。

ベッド脇には、くたびれた、たくさんのファッション雑誌が積まれていた。

その向こうには等身大の頭のない人形……あとで、イザベラが「トルソー」と呼ぶのだと教えてくれた、ショーウィンドウの中にあるマネキンのようなものが置かれていて、そこには作りかけの付け襟やショールが掛かっていた。

「お洋服、好きなの?」と聞くと、

「そもそもはお針子さんの仕事で、アムスにやってきたのよ」と言った。

それからイザベラは、わたしの興味をまったく置いてけぼりにして、嬉々としてお洋服の話を始めた。

初めは小さい頃にお姉ちゃんにもらった、大きなフリルのついたブラウスを着たことがきっかけだったの、と。貧乏ではなかったけれど、裕福でもなかったので、色んなものをリメイクしたり、縫って作るようになったの、と話してくれた。

イザベラが今までに作ったかわいいブラウスや帽子、髪飾りやブローチなどを見せてくれた。

夢は自分の作った小物を扱う店を持つことなのよ、と言った。

完成したばかりだという小さな鞄には、丁寧にひまわりが刺繍されていた。色使いはゴッホだけれど、このバッグ部分のひまわりはとてもかわいらしかった。

長い紐がついていて、肩から斜めに掛けられるようになっている。

「サコッシュっていうの。これ、マノンにとっても似合ってる」

わたしの肩にそれを掛けると、紐が長すぎて、バッグ部分が膝の上くらいまできてしまった。イザベラはそれを見てくすっと笑うと、肩の上の部分をつまんで、器用に縛って位置を調整した。

「今、紐を短く縫ってしまおうと思ったけれど、よく考えたらマノンもすぐに大きくなるものね。こうやって結んでおきましょう。これはマノンにプレゼントするわ」

トラ猫が足元でミュアーと鳴いたので、イザベラは「ああ、ごめんね、猫ちゃん」と言いながら、棚から小さな皿を出した。

冷蔵庫から取り出したミルクを入れてトラ猫の前に置いてやると、待ってましたとばかりに素早い動作で顔を皿に持って行った。

ぺちゃぺちゃと、ピンクの舌が白いミルクを掬う音だけが部屋に響いた。

「イザベラは、なんで飾り窓にいるの?」

わたしは聞いてみた。

「なんでそんなこと聞くの? マノン、まさか興味があるの?」

飾り窓の仕事に興味がないことはないけれど、イザベラに興味があった、という表現が正しい。

柔らかいウェーブを持った明るい栗色の髪。陶器のような白い肌に、水面の光を受けてキラキラと光を反射する、吸い込まれそうなライトグリーンの瞳。薄い唇には何もしていないのに、自然なピンクが添えられていて、そこから丁寧に発音される英語には、知性さえ感じられる。

どうしてそんなイザベラが、ときには危険なことや、今日会った昼の男のように、無礼なやつにも遭遇するこの世界で仕事をしているのかが気になったのだ。手首の赤い跡のことを聞いたら、なんでもないとは言ったけれど……。

イザベラは、低い天井にあるシミを見ながら少し考えた。

「それがわからないのよ――」

言ったすぐ後に、イザベラは視線を落として、いたずらっこのように口元に笑みを浮かべた。

「って、言いたいけど、本当は知ってる」

わたしはイザベラが何を言いたいのかわからず、じっと顔を見つめた。

「マノン、恋をしたことある?」

「こい?」

誰かを好きになる、っていうやつかと思ったが、知らない振りをした。

「そう。恋よ。好きな人がいる、ってこと。お母さんとかトラ猫を好きな気持ちとはまた違うゾーンの “好き” ってやつ。その人のことを考えるとさ、ここがキュッと熱くなるっていうのか」

イザベラは片手を優しく握りしめて、胸の間に置いた。

誰かを思い出したように優しい顔をした。

「恋をしたから、飾り窓……?」

わたしは更に聞いた。

「ううん。違うわ。お金が必要なのよ。あの人は今、国立大学で音楽を学んでいて、学費が必要でね」

わたしの理解していない顔を見て、イザベラは説明を続けた。

「かわいそうに、彼は家でご不幸があってね。学費が払えなくなってしまったのよ。だから、わたしがそれを援助しているの。お針子の仕事は、もちろん続けることもできたけど、多くは稼げないでしょう。だから飾り窓で仕事をすることにしたの」

よくわかっていなかったが、わたしはイザベラに思ったままを口にした。

「でも、飾り窓の仕事は大変なことなんでしょう?」

トラ猫が、ベッドに腰掛けていたイザベラの膝に頭を乗せた。

優しく金色の背を撫でるイザベラの瞳は、どこか寂しげに見えた。

「そうね。簡単に稼げる仕事だけど、簡単ではないわね……」

手首の赤い跡に目を落とす。でもね、とイザベラは続けた。

「あの人がどんなに素敵な男かを教えてあげるわ」

<続く>

AUTHOR

西尾潤 (にしお じゅん)

2019年『愚か者の身分』で第二回大藪春彦新人賞を受賞し小説家デビュー。現役でヘアメイク・スタイリストとしても活躍する新進気鋭の小説家。大阪府出身。

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