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episode 01

これは、昨日の自分に言っても信じないだろう。

まさか長年暮らしてきたあの街が、水没するだなんて。

火星と地球の通信時差は、最大で約20分。だからその報道も、遅れて我々の手元に届いた。

はじめに気づいたのは、エンジニアのリンダだった。操作していたPCから顔を上げ、周りを見回す。ちょうど生物栽培空間の天幕から出てきた私は、彼女の焦った声に呼び止められた。

「ねぇ、マイ。あなたたしか、ニュージャージーよね。大変よ!」

報道によると巨大ハリケーンの影響により、ニュージャージー州の一部が大規模な洪水に見舞われ、同時に発生した竜巻が水害を免れた家屋までなぎ倒していた。そしてその一部とは、まさに私の家がある街だった。

「やぁ、これはひどいな。家族との連絡は?」

チーフメディカルオフィサーのニックが背後から画面を覗き込んでくるまで、私は目を見開いて呆然としていた。新生活への期待を込めて選び抜いた壁紙や家具、収納にこだわりのあるキッチン、数年前から時を止めている子ども部屋。それらが濁った汚水に浸食され、あるいは突風に吹き飛ばされる幻が、なにもない空間に浮かんでは消えた。

「マイ?」

リンダに顔を覗き込まれ、はっと息を吹き返す。なにもかも、あの家に置いてきた。思い出も、身を切るような悲しみも、それから夫のベンも。

洪水は、夜間に街を襲ったという。ならば彼も、家に帰っていたはずだ。

やはり通信時差の関係で、電話は使えない。私は自分のラップトップを開け、もつれる指を励まし夫に安否確認のメールを送る。この文章があちらに届くのが20分後。すぐに反応したとしても、往復で40分。当分返事は届かないと分かっていても、両手を握り合わせて待ってしまう。

「今、本部にもメールした。あちらでも情報を集めてくれるはずだ」

いつの間にかニックも自分のデスクに着き、キーボードを叩いている。フロリダの本部ならば、細切れの情報しか拾えないこの場所よりも早く被害状況を探れるはずだ。

「なに、どうしたの?」

トレッドミルでジョギングをしていた物理学者のカーラが、首に掛けたタオルで顔を拭きながら近づいてくる。タンクトップを着たチョコレート色の豊かな胸元が、汗にコーティングされて輝いている。

事情を説明するリンダの声をやけに遠く感じながら、私は額を手で押さえた。

たとえ外界では砂嵐が吹き荒れていたとしても、1200スクエアフィートの床面積しかないドーム型コロニーの内部は、常に気温、気圧、酸素量が一定に保たれている。普通なら、運動もしていないのに息苦しいということはないはずだ。

私は荒い息を吐きながら、ドームにただ1つだけ設けられた窓に目を遣る。10インチのピザ程度のサイズに丸くくり抜かれた先には、ごつごつとした赤茶色の大地が広がっている。
見渡すかぎりなにもないその風景の中に、宇宙服に身を包んだ人影が2つ。パイロットのイーサンと設計担当のダニーが、足元の土を採取しているのである。

一見乾燥しているように見える土壌でも、加熱すれば放出された気体から水が取り出せる。我々が口にする水はそうやって作り出され、一滴も無駄にしないよう循環利用されている。火星に於いては貴重な命の水が、地球では1つの街を湖にしてしまった。

1年間のプロジェクトを順調にこなし、地球帰還まであと1ヶ月を切っていたというのに。
呼吸を整えるために、私は目を瞑り、大きく息を吐き出した。ベンの面影を思い浮かべようとしても、家を発つときに見た遠い背中ばかりが瞼の裏にちらついた。


1年間の火星移住プロジェクト。そのクルー候補に手を挙げたのは、あの家とベンから逃れるためだった。

そうでもなければ私の身には大きすぎるチャレンジに、挑もうとは思わなかったかもしれない。仕事の間はどうにか正気を保てても、家に帰るともう駄目だった。まだ3歳だった小さな小さな娘のミアが、短すぎる生涯を終えた家だ。

日本人の母を持つ私は、彼女と同じくバスタブにお湯を貯め、四肢を伸ばしてリラックスするのが好きだった。お湯を抜き忘れた浴槽が、小さなミアにとっては大海原にも等しいとは思いもしなかった。

子供が溺れるときは、静かだ。手足をバタバタさせて水音を立てたり、叫んだりはしない。だから私は、ミアが危機的状況にあることに気づかなかった。日常の家事を済ませ、そういえばミアの声がしないと家中を探し回り、見つけたときには娘はバスタブの中に沈んでいた。

半狂乱になって小さな体を抱え上げ、人工呼吸も心臓マッサージも試みたが、駄目だった。ミアの魂を呼び戻すには、時間が経ちすぎていた。

2年間の不妊治療の末に、やっと授かった子供だった。くるんとカールした髪に、ハシバミ色の瞳。笑うと頬に笑窪が浮かび、好きな音楽に合わせて上手に踊った。上機嫌のときには、天を仰いで愉快に笑った。

そんなミアを永遠に失った我が家は、殺伐としたものになった。ベンは悲しみに耐えきれず、私に入浴の習慣があったことを責めたし、私も私自身を責めた。顔を合わせれば傷つけ合ってしまうから、私は現実から目を逸らすように職場に寝泊まりすることが増え、家には寄りつかなくなっていった。

このままではいけないと思っていても、私もベンも、どうすればいいのか分からなかった。どちらも決定的なひと言を恐れ、お互いを避けることで、夫婦関係の終焉の日を引き延ばしていた。

<続く>

AUTHOR

坂井希久子 (さかい きくこ)

2008年『虫のいどころ』で第88回オール讀物新人賞を受賞。2009年『コイカツ-恋活-』で小説家デビュー。2017年には『ほかほか蕗ご飯 居酒屋ぜんや』で第1回高田郁賞、第6回歴史時代作家クラブ新人賞と数々の受賞歴を持つ。官能小説家・エッセイストと多彩な側面とバラエティに富んだ作風を持つ異色の小説家。和歌山県出身。

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